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子育て科学アクシスブログ


「考えて」批判する。

こんにちは、成田です。

 
最近凝っているのは「哲学」入門。

それも、先日NHKでやってたドラマ「ここは今から倫理です」に触発されてからという、わりとミーハーなブームなんですが。

いや、以前からちょっとずつ気になってきて「落語哲学(落語はめっちゃ哲学です!)」とか「思考実験(心理学に重なりますね)」とか周りから攻めていっていましたが、ここへきてもう一度(何を隠そう、私は共通一次テストを倫理で受けたので、ちゃんと勉強したこともあるはずなんです・・よ)一人ひとりの哲学者の言ってることについて気にしてみようと考えました。

 
で、さらさらっと入門書を何冊か読んだ結果、行きついたのが「考える」ことが人間という生き物の存在を証明する、ある意味唯一無二の事象であるということ。

だから「考える葦」だの「われ思う、ゆえに我あり」だの言いたくなるわけだ。ってこと。

たくさんの偉い人たちはみんなひたすら「考えて」「考えて」そしてまた「考えて」いたんだということです。

考えるとね、疑問が浮かぶ。その疑問について激論を戦わせたり、また考えたり。それが哲学の真髄なのであって、別に哲学者でなくても、哲学はどこにでも転がっているはず、なんです。

 
そういう意味で言うと、今、「考えている」人ってすごく少ない気がします。

考えたらおかしいでしょ、っていうことをあたかも真理であるかのように声高で言っている。

それが、以前はせいぜいテレビ・ラジオだけだったのに、今はだれもがネットという無限の闇に向かってどんどん発信している。怖いなあって本気で思います。

それをきちんと考えて批判する人のなんと少ないことか。

 
今朝ラジオを聞いてたら、「ビーガン専門の宅配業者」の紹介をやってて、さかんに「環境に配慮した取り組みです」って司会者の人が言ってました。曰く、ビーガンはお肉を食べないから資源を大事して環境に配慮している。冷凍食品で6食パックで届くから無駄がないから環境に配慮している、あげく「紙の容器を使っているのでこの業者は大変環境に配慮していますねえ」ですって。

 
少し考えてみればわかることなのに、何も考えない人がこうやって公共の電波を使って間違った知識を拡散する。それを何も考えない人がそうだそうだと鵜呑みにする。

 
元来私たちは生態系の中に組み込まれている、ただの動物です。

動物は動物も植物も食べます。命をつなぐためです。

そして、動物の排泄物などがもっと小さな生物の栄養になるから、まわりまわって生態系は保たれるのです。なので、生来持っている食行動を変える必要など、どこにもありません。

私たちは人間という動物に進化したときから、雑食性であり、昼行性なんです。

もちろんビーガンの方を批判しているわけではないのですが、ビーガンだから環境保護になっているという考え方は明らかにおかしい。

 
一番の問題は、人間が食べもしないのに捕獲したり収穫したり伐採したり保管したりして、生態系のバランスを超絶的に破壊したことでしょう。

本当に環境に配慮するんだったら、自分の必要な量だけ必要な時に捕獲・収穫してその場で食べる、という生活に立ち戻ればいいのです。

そしたら容器もいらないし、不要なものを冷凍庫に保存してフロンガスで空気を汚さないわけで。

環境保護を声高に気取る人たち、そんなに言うならそれくらいやってみなよ!といつも私は思っています。

だいたい、紙は木を伐採して作るのに、なんで某コーヒー屋さんはプラスチックのストローを紙に変えて偉そうに自慢しているのか、私にはまったくわかりません。

もっと言うなら、昼行性を無視して夜も煌々と電気を灯して資源の無駄遣いしながら、環境保護を謳う活動をしている人たちも理解できません。

 
かくいう私は、高校一年生の時に初めてアメリカに行って、でっかいプラスチックカップになみなみ注いだコークをがぶ飲みし、プラスチックの容器に入ったとてつもない大きさのハンバーガーにかぶりつき、紙ナプキンをわしづかみにするアメリカ人の姿に圧倒された経験を持ちます。

高校一年の私は、アメリカの、その姿に「環境破壊!」というイメージではなく「憧れ」を持ちました。「かっこよさ」を感じました。

そのころ日本でテイクアウトと言えば、近所の蕎麦屋さんが瀬戸物の容器に入れたお蕎麦を家まで運んでくれる「出前」が当たり前でした。

食べ終わったあとの容器は、きれいに洗ってお店に返すのが礼儀でした。

 
10~15年くらい遅れて日本もどんどん使い捨て容器を使い始め、食べ物がそこここに有り余るようになってきたとき、やっと日本も追いついた、と思いました。

こんな価値観で生きてきた若者(私を含めて)が、その後町の小さな蕎麦屋をさんざんつぶしました。

そして、「かっこいい」だの「忙しい」だの「便利な方がいい」だの、ありとあらゆるわがままを言ってきた私たちの、罪そのものが形になっているのが今の地球環境なのです。

 
だからと言って、そんな私たちが急に、思春期から植え付けられた価値観を変容させて、野を駆け海に潜って自分の食べるだけの食料を捕獲する生活になんかもちろん戻れるわけがありません。

それどころか、町の蕎麦屋さんから瀬戸物の容器に入った蕎麦を出前で取ることすら、今や抵抗を感じる人がほとんどなのではないでしょうか。

自分の脳で作り出した高度文明社会を退化させることなんか、絶対に無理だと思います。でもそうしなければ本当の意味での環境保護なんて実現しようがない。

 
そこまで今の風潮を考え、批判もしてから、「では自分に何ができるのか」を深く考えること。これが一番大切な哲学的思考なのではないでしょうか。

私も私なりに環境に対してできることは常に考えているつもりですし、それを自身で実行しているつもりです。

そして、そんな私が絶対にやらねばならないこれからの課題は、一人でも多くの、まだ価値観の定まっていないこれからの子どもたちに「考えて」「批判できる」脳を育てていくことかなあ、と考えています。数学や英語や理科で点数をたくさん取れる脳を育てるのも大事ではあると思います。でも、哲学とは「考えること」そして「批判すること」。もしかすると生きるために最も必要な学問なのかもしれません。現に哲学は古代ギリシア時代から現代まで脈々と息づいていることを、私たちは今一度本気で思い出さなければいけないのかもしれません。

 
成田 奈緒子